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【北部人物ファイル3】『ゴッホのトラウマ』著者・羽根正章さん 羽根義章さん2013.11.11

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■プロフィール
兄・羽根正章(はね まさあき)、弟・羽根義章(はね よしあき)/1967年4月4日生まれ。熊谷在住の双子で毎日新聞熊谷南部販売店に勤務。若いころから芸術と心理学に精通していた彼らは、ハードなスケジュールのなかゴッホを題材にした小説「ゴッホのトラウマ」(文芸社)を共同執筆した。

 

新聞広告を見て原稿送付。1週間で出版オファー
正章(以下、M):2010年の初頭、私たちは長年あたためてきた原稿を文芸社に送りました。いつも読んでいる新聞に「あなたの原稿を本にします」という自費出版の広告があって、それで試しに送ってみようと。それがこの『ゴッホのトラウマ』です。
義章(以下、Y):原稿を送った1週間後、出版社の編集担当の方から電話をいただき、お会いしたいと言われました。同時にぼくらの原稿の感想文までいただいたんです。それですぐ兄と一緒に文芸社へ出向きました。
M:編集担当の方にお会いするなり書籍化のお話をいただきました。びっくりでしたよ。
Y:そこから契約についての説明などを受けて、トントンと出版の話が走り出しました。まあ、出版するには内容をもう少し手直しする必要がある、とも言われましたが。ぼくらが契約書にサインしたのはちょうどあの震災の1年前だったんです。

読書好きだった少年時代。ゴッホとの出会い
親の影響で読書が好きだったという羽根兄弟は、小学生時代では読書文芸クラブに所属し、ファンタジー小説などを書いていた。このときの将来の夢は兄・正章さんが「童話作家」、弟の義章さんもやはり「作家」だった。

Y:小学4年のとき、父に連れられて上野の国立西洋美術館へ「ゴッホ展」を観に行きました。あのゴッホの絵画を生で観られるということで、かなりワクワクしながら行ったんですが、ゴッホと出会ったときの印象は実はあまり良くなかったんです。ぼくは、ダークな色を多用したゴッホの自画像を見て「怖い人だなあ」って。
M:わたしは『種まく人』などの作品から、「労働者たちをなんて暗いタッチで描く人なんだろう」って。
Y:それから2年くらいして、世界の偉人を紹介するアニメでゴッホのことをやっていたんです。アニメだとすんなりと受け入れることもできて、複雑で短い人生を送ったゴッホに興味を持つようになりました。

中学ではともにサッカー部で汗を流し、同じ高校に進学後はふたりとも美術部に入るという、いつも一緒に行動するのが当たり前だった羽根兄弟。その後、兄は美術理論などを学ぶために大学へ進学。そこで世界的にも有名なゴッホ研究家であるマイヤー・シャピローの文献を原文で読み、ゴッホへの興味が大きくなっていくとともに、岸田秀教授(※1)の講義を聞いたことがきっかけで心理学へも傾倒していく。一方、弟は映画監督を目指して専門学校へと進み、脚本執筆に明け暮れる毎日。しかし、ワケあってふたりとも中退する。

25歳で再会した兄弟。二人三脚のはじまり
M:私が当時勤めていた横浜の新聞販売店に弟を呼び寄せ、共同生活がまたスタートしたのを機に、「ふたりで何か書こう!」ってなりました。
Y:エラリー・クイーン(※2)のように兄弟合作で推理小説を、なんて話してましたね。
M:題材を探していたときにたまたま私が読んでいたモートン・シャッツマンの著書『魂の殺害者』の中で、“太陽光から迫害されている”という被害妄想をはじめとするシュレーバー症例(※3)に関する記述がありました。そのとき、ゴッホの『夕陽と種まく人』で描かれている太陽の様子とその陽光のタッチを思い出しました。彼の独特な感性はシュレーバー症例によるものではないかと。当時すでに世界中の多くのゴッホ研究者たちが彼の精神疾患とその原因について、あらゆる仮説をたてているのを知っていましたが、私たちはゴッホの幼少期のトラウマが原因でシュレーバー症例を発症したのでは、という仮説を思いついたんです。
Y:私たちの仮説がすでに発表されているか、当時発刊されていたゴッホ研究家の文献を片っ端から読みました。しかし、どこにも“幼少期のトラウマ反復強迫説”を唱える文献はありません。
M:これで題材が見つかりました。「ゴッホでいこう!」と。

ゴッホの内面に関する論文をまとめ、初の自費出版
M:それから数年して、私たちが29歳のときですが“幼少期のトラウマ反復強迫説”を『太陽の殺害者』という1冊にまとめました。出版コードの付かない冊子でしたので、製本した100部はすべてゴッホ研究家や心理学者に送ったんです。反応は……ありませんでした(笑)
Y:その後もゴッホを題材にしたミステリー作品を兄と共同で執筆し続けては、江戸川乱歩賞に鮎川哲也賞、横溝正史ミステリ大賞といったあらゆる文学賞に挑戦するのですが、一次選考には残るもののそこで落選という結果でした。

「ゴッホのトラウマ」誕生まで
M:文芸社から出版のゴーサインが出たあとで、この作品にもっとエンターテインメント性を持たせようということになりました。それまで論文形式で書いていたものに『ダ・ヴィンチ・コード』のようなフィクションを盛り込んでドラマ仕立てにすることで、多くの読者に訴求できるだろうと。それで登場したのが切り裂きジャックのような連続殺人鬼。彼のまわりでいろいろな事象が起こり、それがゴッホの“幼少期のトラウマ”とリンクしていくといった展開にしたかったのですが……話がうまくいかず元の設定に戻しました。
Y:ぼくらの執筆時間は、朝刊を配り終えて朝食を済ませたあとから夕刊の準備が始まるまでと決めています。だいたい朝の9時から12時くらいまで。そうして約3年かけて『ゴッホのトラウマ』の最終稿が完成しました。執筆スタイルも独特で、ざっくりとした内容をふたりで考えてからそれぞれがワープロで自由に書きます。あ、パソコンじゃないですよ。ぼくらは今でもワープロ派です。
M:ある程度書きあがった時点で内容の検討を始めます。お互いの良い部分を抜き出して、ひとつの本原稿にミックスしていく。27歳で共同執筆を始めてからずっとこのスタイルです。
M:最初にもお話しましたが、『ゴッホのトラウマ』の契約を結んだのが東日本大震災の1年前。そして震災を迎えあの混沌とした時期を経て、多くの謎に満ちたゴッホの生涯を私たちなりの視点で書き続けました。私たち兄弟が30年以上も前に出会い、それ以来ずっと神様のように尊敬するフィンセント・ファン・ゴッホ研究の集大成です。
Y:ゴッホは“悲劇のヒーロー”だとぼくは思うんです。複雑な家庭環境と波乱の人生、そして37歳でこの世を去るまで、ゴッホは明らかにヒーローでありながらも悲運にもまれ続けています。そこにちょっぴりシンパシーを感じることもあるのですが。
M:続編、というか今度は違う人物の人生を書く構想があります。可能な限り、私たちの共同執筆は続ける予定です。

◎注釈
※1)岸田秀教授:心理学者、精神分析学者。和光大学名誉教授。
※2)エラリー・クイーン:アメリカの推理作家。ユダヤ系の従兄弟で多くの作品を残した。
※3)シュレーバー症例:妄想、幻覚、神秘体験などをともなう偏執症の症例。

写真:(左)インタビュー後に勤務先の毎日新聞熊谷南部販売店前にて。/(中上)インタビュー中の羽根兄弟。ゴッホの話題になると目が一段と輝くのが印象的でした/(右上)兄の正章さん。シャツは「夕陽と種まく人」/(中下)弟の義章さん。シャツは「花瓶の14輪の向日葵」(右下)ゴッホ関連書籍にはメモ書きがびっしりと書かれている